判子の回覧をやめる。承継後の稟議・決裁フローのデジタル化
結論はシンプルだ。稟議書に判子を押して回す運用は、承継のタイミングで見直すのがいちばんコストが低い。先代が築いた決裁ルートには「なぜこの順番で回すのか」「なぜこの人の判子が必要なのか」という理由が明文化されていないことが多く、後継者が疑問を持った今こそ、フローそのものを電子化しながら棚卸しできる。判子を押す行為をなくすことが目的ではない。誰が・何を・どの基準で承認しているのかを見える形に直し、承継後の意思決定を後継者自身の手に取り戻すことが本当の目的だ。
こんな状態に当てはまる経営者に向けて書いている。先代から会社を継いで1〜3年、従業員は10〜80人程度。稟議書や請求書が今も紙で回っており、決裁者の欄には「専務」「常務」など先代時代からの役職が並んでいるが、実際の権限と一致しているか怪しい。出張中や外出中に決裁が止まり、古参の総務担当者に「これは誰の判子をもらえばいいですか」と聞かないと稟議が進まない。IT担当者はおらず、パソコンは得意ではない。そういう状態の二代目・三代目経営者に向けて、判子の回覧をやめて決裁フローをデジタル化するときに、何から手をつけ、何を後回しにすべきかを具体的に書く。
ある後継者が体験した「判子待ち」の一週間
架空の例だが、多くの承継者が思い当たる場面として、ある製造業の二代目社長のケースを想像してほしい。先代から会社を継いで2年目、従業員は35人。ある月、大口の得意先から急ぎの見積り依頼が来た。現場の担当者はすぐに見積りをまとめたが、社内規定では「50万円以上の見積りは常務決裁、100万円以上は社長決裁」となっていた。ところが常務は取引先回りで数日社外に出ており、稟議書は総務の机の上で止まった。総務担当者は「常務が戻るまで待つしかない」と言うだけで、代わりの決裁ルートは規定にない。結局、見積り回答は5営業日遅れ、得意先からは「対応が遅い」と指摘を受けた。
このとき後継者である社長は、そもそも「なぜ常務決裁が必要なのか」を正確に説明できなかった。先代の時代に、常務が製造現場の実質的な責任者として稟議に加わる仕組みが作られ、その後常務の役割は変わったが、稟議書のフォーマットだけがそのまま残っていた。判子の順番は、会社の実態よりも「昔からそうだったから」という慣性で決まっていたのだ。こうした場面は、判子を電子化するだけでは解決しない。決裁ルートそのものを見直す必要があるという、承継後によく起きる典型的な状況だと言える。
なぜ承継のタイミングが「判子をやめる」絶好の機会なのか
先代が現役だった時代の決裁ルートには、たいてい歴史的な事情がある。「昔、大きな失敗があってから部長決裁が必須になった」「創業時からの付き合いで、この取引先だけは社長印が要る」といった、今の事業規模や取引実態には合わなくなったルールが、判子という物理的な儀式のまま生き残っている。先代が存命で会長として残っている場合も、現社長が存命でなくなった場合も、共通して起きるのは「誰も止める理由を説明できないが、誰も変える権限があると思っていない」という状態だ。
ここで問題なのは、判子そのものよりも「決裁ルートが暗黙知になっている」ことだ。総務のベテラン社員だけが「この案件は誰に回せばいいか」を知っていて、その人が休むと稟議が滞る。後継者である社長本人すら、自社の決裁ルールを正確に説明できないケースは珍しくない。中小企業庁がまとめた「事業承継ガイドライン」でも、事業承継は経営権の承継だけでなく、資産・知的資産(経営理念、人脈、業務ノウハウなど)の承継を含む三位一体のプロセスだと位置づけられている(中小企業庁「事業承継ガイドライン(第3版)」)。決裁の順番やルールも、この「知的資産」の一部であり、承継時に一度言語化しないと、属人化したまま先代の記憶とともに失われていく資産なのだ。
独立行政法人中小企業基盤整備機構が実施した「中小企業のDX推進に関する調査」では、DXの具体的な取組内容として「文書の電子化・ペーパーレス化」に取り組んでいる企業が最も多いという結果が出ている(中小企業基盤整備機構「中小企業のDX推進に関する調査」アンケート調査報告書)。多くの中小企業が最初に手をつけるのが、まさに稟議・決裁を含む社内文書の電子化だということだ。裏を返せば、判子の回覧という業務は、多くの会社にとって「最初に着手すべきデジタル化対象」として認識されている領域であり、いきなり特殊な取り組みをするわけではない。
さらに2025年版の中小企業白書では、事業承継を契機として在庫管理から営業、経営戦略に至るまで様々な領域のデジタル化に取り組み、業務効率化や従業員のエンゲージメント向上につなげた企業の事例が紹介されている(中小企業庁「2025年版中小企業白書」第9節 事業承継)。承継を機にデジタル化に踏み出す企業が実際に存在し、それが白書という一次情報の中で紹介されているという事実は、後継者が「今、社内の仕組みを変えてもいい」という判断をするときの後ろ盾になる。先代のやり方をすぐに変えるのは気が引けるという後継者は多いが、承継自体が業務プロセスを見直す正当なタイミングであることは、行政も認めている。
判子の回覧が生む3つの実害
抽象的に「非効率だ」と言うだけでは、古参社員や先代(会長)を説得できない。判子の回覧が具体的にどういう実害を生んでいるかを、承継した経営者の視点で整理する。
1つ目は、意思決定の速度が「一番遅い決裁者の予定」に支配されることだ。 紙の稟議書は物理的に一人ずつ手渡しか、社内便で回るため、決裁者の誰かが出張中・外出中・休暇中であれば、そこで完全に止まる。取引先への見積回答や、仕入先への発注判断が、社内の判子待ちで1週間以上遅れるという話は珍しくない。特に後継者が営業や現場で外に出ることが多い会社ほど、社長自身の判子待ちで社内が止まるという逆転現象が起きる。
2つ目は、誰が何を承認したかの記録が「紙一枚」にしか残らないことだ。 稟議書が引き出しやファイルに保管されているだけでは、過去の決裁根拠を検索することができない。税務調査や監査で「この支出はいつ、誰の承認を得て行われたものか」を問われたときに、ファイルを一枚ずつ探す作業が発生する。電子化されたワークフローシステムであれば、申請から承認までの経緯がすべてデータとして残り、後から検索・追跡できる(シヤチハタ「社内稟議とは?電子システムで効率化する方法も解説」)。紙の判子文化は、記録の面でも承継後の経営者にとって不利になる。
3つ目は、決裁ルートの「見えない権限」が、後継者の経営判断を縛ることだ。 先代時代の決裁欄に「専務の承認が必要」と書かれているが、その専務が古参社員で、実質的な経営判断は後継者である社長が下しているとする。この場合、紙の稟議書のフォーマットそのものが、実態と異なる権限構造を固定化してしまっている。後継者が「もう自分の判断で決めていい」と思っても、フォーマットを変える提案をしない限り、古参社員の判子が形式上必要なままになる。これは単なる非効率ではなく、後継者の経営権限が実質的に制約されている状態だと言える。
デジタル化の前に、必ずやるべき「決裁ルートの棚卸し」
ここが最も重要な工程であり、多くの会社が失敗する原因でもある。いきなりクラウドの承認ツールを導入して、紙の稟議書と同じ承認者・同じ順番をそのままシステムに移植してしまうと、「判子が画面上のボタンに変わっただけ」で、属人化や非効率はそのまま残る。デジタル化の本質的な価値は、ツールを入れることではなく、その前段階の「棚卸し」にある。
具体的には、以下の順序で進める。
まず、現在紙で回っている稟議書・申請書の種類をすべて書き出す。購買申請、出張申請、経費精算、契約書の押印申請、採用の内定通知、価格変更の承認など、会社によって種類は異なるが、たいてい10種類前後に収まる。次に、それぞれの申請について「誰が申請し、誰が承認し、最終的に誰が決裁するのか」を現状のまま書き出す。この作業だけで、「なぜこの人の承認が必要なのか答えられない」項目が複数見つかるはずだ。
見つかった項目については、後継者自身が「本当に必要な承認者か」を一つずつ判断する。ここで古参社員や会長に相談することは悪いことではない。むしろ、「このルートはなぜこうなっているのですか」と尋ねること自体が、承継後の関係構築において有効に働く。先代の判断を尊重しつつ、今の事業規模や取引実態に合わせて承認者の数を絞り込んでいく。一般的には、金額や重要度に応じて承認者の階層を2〜3段階に単純化できることが多い。10万円未満は課長決裁、100万円未満は部長決裁、それ以上は社長決裁、といった具合に、金額基準で機械的に判断できる形に整理すると、その後のシステム化がスムーズになる。
この棚卸し作業を先にやらずにシステムを導入すると、後から「このルート、そもそも要らなかった」と気づいても、システムの設定変更という新たな作業が発生する。棚卸しに時間をかけることは、遠回りではなく最短経路だと理解しておく必要がある。
棚卸しの実務では、表計算ソフトで一覧表を作ることをおすすめする。申請の種類、申請部門、現状の承認者、承認者の人数、承認にかかる平均日数、そして「この承認者は本当に必要か」というメモ欄を持つ表を用意し、総務担当者や各部門の責任者にヒアリングしながら埋めていく。すでに一部の申請履歴がデジタルデータとして残っている会社であれば、VBAマクロを使って過去の稟議書ファイルから申請日・承認日・承認者名を自動的に抜き出し、集計する方法もある。ただし、紙の稟議書がスキャンされずにファイルされているだけの会社では、そもそもデジタルデータが存在しないため、まずは直近半年分だけを手作業で集計するところから始めるのが現実的だ。表が完成すると、承認者が5人以上いる申請類型や、承認までに平均1週間以上かかっている申請類型が浮かび上がってくる。そこが最初に手をつけるべき優先順位の高い箇所になる。
また、棚卸しの過程で、同じ内容の申請が部署によって異なるフォーマットで運用されていることが判明するケースも多い。たとえば、営業部門では「出張申請書」、製造部門では「出張・外出届」という名前で、実質的に同じ承認ルートを通っているのに、フォーマットが不揃いなために統合管理ができていない、という状態だ。これは先代の時代に部門ごとに個別最適化が進んだ結果であり、悪意があるわけではない。しかし電子化する際には、こうした重複や表記の揺れを一つに統一する、社内文書のフォーマット整理作業が欠かせない。この作業を後回しにすると、システム上に似たような申請フォームが複数残り、社員が「どのフォームを使えばいいか分からない」という新たな混乱を生む。棚卸しの段階で、フォーマットの統合まで一緒に済ませておくことが望ましい。
どんな仕組みで電子化するか。段階別の選び方
決裁ルートを整理したら、次はどの手段で電子化するかを選ぶ。ここは会社の規模、ITへの慣れ、予算によって選択肢が変わるため、一足飛びに大掛かりなワークフローシステムを入れる必要はない。
第一段階は、既存のグループウェアやチャットツールの承認機能を使う方法だ。 すでにビジネスチャットやグループウェアを導入している会社であれば、追加費用をかけずに簡易な承認フローを組める場合がある。申請フォームを作り、承認者にチャット通知が届き、ボタンを押すだけで承認が完了する仕組みだ。ITに詳しい社員がいない会社でも、テンプレートに沿って設定するだけで始められることが多い。
第二段階は、専用のワークフローシステムを導入する方法だ。 申請フォームから申請すると自動で承認者・決裁者に通知が送られ、決裁完了後は電子データとして保管される仕組みで、業務プロセスが可視化されて進捗の停滞を防げるほか、意思決定のスピードアップにつながるとされている(デスクネッツ「稟議は電子承認システム『ワークフロー』の導入でスムーズに!」)。スマートフォンやタブレット対応のシステムであれば、申請されたタイミングで承認者に通知が届き、外出中でも承認ができるようになる。承継後の後継者が外回りや現場対応で社内にいる時間が少ない会社では、この「どこでも承認できる」機能そのものが、判子回覧の実害だった「一番遅い決裁者待ち」を直接解消する。
第三段階は、社内で使っているシステムに合わせて低コードで自作する方法だ。 すでに業務でシステムを内製・カスタマイズする文化がある会社や、既存の基幹システムに承認機能を組み込みたい会社では、ノーコード・ローコードと呼ばれる、プログラミングの専門知識がなくても業務アプリを組み立てられる仕組みを使う選択肢もある。ただし、非IT出身の後継者が単独でこの選択をするのはリスクが高く、外部の開発会社やITコーディネーターに相談しながら進めるのが安全だ。
どの段階を選ぶにせよ、最初から全社の全申請を一気に電子化する必要はない。まずは申請件数が多く、かつ決裁が遅れることで実害が大きい業務(購買申請や経費精算など)を1つか2つ選んで試験導入し、運用が定着してから対象を広げていくのが現実的だ。
決裁権限を「役職」ではなく「基準」で再設計する
棚卸しが終わったら、次に取り組むべきは決裁権限の再設計だ。先代時代の決裁ルールは、多くの場合「専務決裁」「常務決裁」といった役職名で規定されている。しかし役職名で権限を決める方式には、承継後に大きな欠点がある。役職と実際の業務範囲・判断能力が一致しなくなりやすいことだ。先代のもとで長年専務を務めていた人物が、承継後も同じ肩書のまま残っているが、実際の経営判断の中心は後継者に移っている、という状態はよくある。この場合、稟議書のフォーマット上は専務決裁が必須のままだが、実質的には形式的な承認になっており、責任の所在が曖昧になる。
これを避けるには、決裁権限を「役職」ではなく「金額基準」「取引の種類」「リスクの大きさ」といった、客観的に判断できる基準で再設計するのが有効だ。たとえば、購買申請であれば「10万円未満は現場責任者決裁、10万円以上100万円未満は部門長決裁、100万円以上は社長決裁」というように、金額を軸に単純化する。契約書の締結であれば「既存取引先との継続契約は担当部長決裁、新規取引先または年間契約額500万円以上は社長決裁」といった具合に、リスクの大きさで区分する。こうして基準を明文化すると、役職者が異動・退任・世代交代しても、決裁ルール自体は変える必要がなくなる。これは、次の代への承継においても再利用できる仕組みになるという意味で、長期的な投資でもある。
もう一つ重要なのは、決裁権限の再設計にあたって、後継者が「すべてを自分で決裁する」方向に振れすぎないことだ。先代から引き継いだ直後は、不安から細かい決裁まで自分で確認したくなる心理が働きやすい。しかし、決裁がすべて社長に集まる構造にしてしまうと、判子の回覧をデジタル化しても「社長という一人の決裁者待ち」に形を変えるだけで、実害は解消されない。適切な権限を中間管理職に委譲し、後継者自身は重要度の高い決裁だけに集中する体制を、この機会に合わせて設計するのが望ましい。権限委譲は承継後の組織づくりの一部でもあり、決裁フローの再設計はその具体的な実践の場になる。
導入のスケジュール感と、つまずきやすいポイント
実際にどれくらいの期間で進めるべきか、目安を示しておく。棚卸しから小規模な試験導入までを含めると、おおよそ3〜6ヶ月を見込むのが現実的だ。最初の1ヶ月は、紙の稟議書の種類と現状の承認ルートを洗い出す棚卸し期間に充てる。この期間は焦らず、総務担当者や各部門の責任者へのヒアリングに時間をかけたほうがよい。ここで手を抜くと、後の工程すべてに影響する。
次の1〜2ヶ月で、決裁権限の基準を再設計し、どの申請類型から電子化するかを決める。同時に、導入するツールの候補を絞り込み、無料トライアルなどで実際の操作感を確認する。この段階では、ITに詳しい社員がいなくても、ツール提供会社のサポート窓口や、外部のITコーディネーターに相談しながら進められる。
残りの2〜3ヶ月で、選んだ1つの申請類型について試験導入を行い、実際の運用に乗せる。試験導入の期間中は、紙の運用と並行して回すのではなく、思い切って完全に電子化した方がうまくいくことが多い。並行運用は「紙もシステムも両方管理する」という余計な負担を生み、社員のモチベーションを下げやすいためだ。
つまずきやすいポイントとしては、次の3つが挙げられる。1つ目は、決裁者がスマートフォンやパソコンの操作に慣れておらず、通知が来ても気づかない、あるいは承認操作でつまずいてしまうことだ。これは特に会長や高齢の役員が決裁ルートに残っている場合に起こりやすい。事前に簡単な操作説明の機会を設け、最初の数回は後継者や若手社員が横について操作をサポートすると、抵抗感が和らぐ。2つ目は、承認者の設定を誤り、承認ルートが実態と合わなくなることだ。棚卸しの段階での基準設計が甘いと、システム上で無限ループのような承認待ちが発生することもある。試験導入の初期は、想定外の動きがないかを後継者自身が定期的に確認する必要がある。3つ目は、システム導入だけをゴールにしてしまい、運用ルールの見直しを継続しないことだ。電子化した直後は最適だったルートも、事業の変化とともに合わなくなっていく。半年から1年に一度は、決裁ルートを見直す機会を設けておくことを勧める。
古参社員・会長世代の抵抗にどう向き合うか
承継後のデジタル化で最も難しいのは、技術的な選定よりも社内の合意形成だ。特に、長年紙の判子文化に慣れてきた古参社員や、会長として社内に残る先代からは、「今までのやり方で問題なかった」という反応が出やすい。ここで後継者が真っ向から「古いやり方は非効率だから変える」と押し切ると、関係がこじれる。
有効なアプローチは、変更の理由を「効率化」ではなく「記録を残すこと」「後継者自身が会社を継続的に運営していくための仕組み」として説明することだ。判子の文化を否定するのではなく、「誰が何を決めたかを正確に記録し、次の世代にも引き継げる形にしたい」という文脈で伝えると、先代や古参社員の理解を得やすい。これは方便ではなく、実際にワークフローシステムの価値の中心が「証跡を残すこと」にあるという事実とも一致している。
また、最初から全員に新しいツールを使わせるのではなく、後継者自身と、後継者に近い若手・中堅社員から試験的に始め、実際に「決裁が速くなった」「出張中でも承認できた」という具体的な体験を古参社員に見せることも効果的だ。人は抽象的な説明より、身近な人の実体験に納得しやすい。特に、後継者自身が外出中に紙の判子待ちで仕事が止まった経験があるなら、その具体的な場面を社内で共有することが、最も説得力のある説明材料になる。
なお、決裁の電子化は、単なる社内向けの業務改善だけでなく、取引先や金融機関からの評価にもつながる場合がある。中小企業基盤整備機構の資料では、事業承継をきっかけとしてデジタル化に取り組む理由として、顧客・取引先からの要請やニーズへの対応が挙げられている事例が紹介されている。取引先が電子契約や電子データでのやり取りを求めてくる場面が増える中、社内の決裁体制そのものが紙のままだと、対応が後手に回るリスクがあることも、社内説明の材料として使える。
決裁データを「経営判断」に使う視点
判子の回覧をやめて電子化する最大のメリットは、実は「速くなること」だけではない。決裁データが構造化されたデータとして蓄積されることで、後継者が経営判断に使える情報が増えることだ。
紙の稟議書は、ファイルに綴じられているだけで、集計や分析ができない。一方、電子化されたワークフローでは、「どの部門で、どの種類の申請が、どれくらいの頻度で発生しているか」「承認までに平均何日かかっているか」「どの決裁者のところで滞留が多いか」といったデータを、CSV形式で出力して表計算ソフトに取り込み、集計することができる。これは、後継者が「うちの会社のどこに非効率が集中しているか」を、感覚ではなくデータで把握する手段になる。
たとえば、購買申請の承認に平均5日かかっていることがデータで分かれば、「決裁ルートのどこかに問題がある」という仮説を持って、さらに棚卸しを進められる。逆に、特定の部門だけ申請件数が異常に多いことが分かれば、その部門の業務プロセス自体に見直しの余地があると気づける。先代の時代は「感覚と経験」で会社を回していた部分を、後継者の世代では「データで裏付けながら経験を積む」という形に少しずつシフトしていくことができる。これは判子をやめることの、直接的な目的ではないが、副産物として得られる大きな価値だ。
さらに一歩進めると、決裁フローの電子化と合わせて、経理や請求書処理の周辺業務をPower Automateのような業務自動化の仕組みで連携させる会社も増えている。たとえば、稟議で承認された購買申請のデータを、自動的に発注書のフォーマットに転記する、あるいは経費精算の承認が完了したら自動的に会計システムに連携するといった形だ。ただし、これは決裁フローの電子化が定着し、社内のデータの持ち方が整理された後の話であり、最初からすべてを自動連携させようとすると、システムが複雑になりすぎて誰も保守できなくなる。段階を踏むことが重要だ。
補助金の活用と、外部への相談タイミング
決裁フローの電子化にあたり、ワークフローシステムやクラウドサービスの導入費用が発生する場合、国の補助金制度を活用できる可能性がある。2026年度からは、これまでの「IT導入補助金」が「デジタル化・AI導入補助金」という名称に変わり、中小企業のITツール導入やAI活用の支援が継続されている(デジタル化・AI導入補助金2026 公式サイト)。補助対象となるのは、事務局に登録されたIT導入支援事業者が提供する、事務局登録済みのITツールの導入費用であり、ツールによっては対象外になる場合もあるため、導入を検討しているシステムが補助対象ツールとして登録されているかどうかを、事前に公式サイトや税理士・ITコーディネーターなどの専門家に確認しておく必要がある。
補助金の申請には事業計画の策定やGビズIDの取得など、一定の事前準備が必要になる。非IT出身の後継者が単独でこの申請プロセスを進めるのは負担が大きいため、顧問税理士や、地域の商工会議所、中小企業基盤整備機構が提供する相談窓口を早めに活用することを勧める。特に、決裁フローの電子化は「どのツールを選ぶか」よりも「どういう承認ルールにするか」という設計部分が本質であるため、ツールベンダーの営業担当者に相談するだけでなく、自社の業務フローを客観的に整理できる第三者(中立的なITコーディネーターや、承継支援に詳しい専門家)に相談することが望ましい。
また、社内にITに詳しい人材がいない場合、システムの選定や導入設定を丸ごと外部に依存することになりがちだが、少なくとも「決裁ルートの棚卸し」の部分は、後継者自身が主体になって進めるべきだ。ここを外部任せにすると、結局「先代時代の承認者構成をそのままシステム化する」という、最も避けたい結果になりやすい。ツールの操作や設定は外部に頼ってよいが、「誰の承認が本当に必要か」を決める作業は、経営権を引き継いだ後継者自身の仕事だと考えておきたい。
小さく始めて、確実に定着させる
最後に強調しておきたいのは、決裁フローのデジタル化は「一気に全社導入する」プロジェクトではなく、「小さく始めて、確実に定着させ、少しずつ広げる」プロジェクトだということだ。承継直後の経営者は、他にも取引先との関係構築、金融機関対応、従業員との信頼関係づくりなど、優先すべき課題が山積している。決裁フローのデジタル化に全力を注ぎすぎて、他の重要な承継業務が手薄になるのは本末転倒だ。
まずは申請件数が多く、かつ承継後に「これは変えたい」と感じた1つの申請類型(多くの場合、購買申請か経費精算)を選び、そこだけ電子化して2〜3ヶ月運用してみる。うまく回ったら、次の申請類型に広げる。この積み重ねが、結果的に「判子の回覧をやめる」という大きな変化を、社内の反発を最小限にしながら実現する最も確実な道筋になる。
判子を押す行為そのものに罪はない。問題は、判子という物理的な儀式の裏にある「誰が、なぜ、その承認をしているのか」が誰にも説明できない状態のまま、承継されてしまうことだ。デジタル化はその状態を可視化し、後継者が自分の言葉で自社の決裁ルールを説明できるようにするための手段にすぎない。ツールを選ぶ前に、まず自社の稟議書を一枚ずつ手に取り、「この判子は本当に必要か」を問い直すことから始めてほしい。
先代から会社を受け継いだ経営者にとって、決裁フローの見直しは、単なる業務改善のテーマではなく、「自分がこの会社をどう経営していくか」という意思そのものを社内に示す機会でもある。紙の稟議書に判子を押してきた慣習を、誰の許可を得るためでもなく、自分の判断で見直し、社員が納得できる新しい基準を作る。その過程そのものが、後継者としての経営権を、名実ともに自分のものにしていく作業になる。判子をなくすことがゴールではなく、その先にある「誰が見ても筋の通った決裁の仕組みを、後継者自身の手で作った」という事実こそが、承継後の経営における最初の実績になるはずだ。
急いで全社一斉に切り替える必要はない。まずは1つの申請、1つの部署から。判子の回覧をやめる小さな一歩が、承継後の会社の意思決定の速度と、後継者自身の経営に対する手触りを、確実に変えていく。
よくある質問
Q1. 古参の総務担当者が紙の運用に強く、電子化に反対しています。どう説明すればいいですか。
効率化ではなく「記録を正確に残すこと」「次の世代にも引き継げる仕組みにすること」を理由に説明するのが効果的だ。長年紙の稟議を管理してきた担当者は、自分の業務のやり方を否定されたと感じると強く抵抗する。まずは本人の知見(誰にどの順番で回すべきかという知識)を、電子化の設計段階でヒアリングし、システムの承認ルート設定に反映させることで、「あなたの経験を仕組みに落とし込む作業だ」という位置づけにすると受け入れられやすい。
Q2. どのくらいの規模の会社から決裁フローの電子化を検討すべきですか。
従業員数の規模よりも、「紙の稟議書が月に何十件も発生していて、決裁待ちで業務が止まる場面が実際にある」かどうかが判断基準になる。従業員10人程度でも、稟議の量が多く決裁者が出張の多い立場であれば、電子化の効果は大きい。逆に、稟議自体がほとんど発生しない会社であれば、優先度は下がる。まずは1ヶ月分の稟議書の枚数と、承認までにかかった日数を数えてみることを勧める。
Q3. 電子化にあたって、先代(会長)にはどう相談すればいいですか。
先代のやり方を否定する言い方は避け、「なぜこの承認ルートになっているのか教えてほしい」という質問から始めるのがよい。先代が明確な理由を答えられる場合は、その理由を尊重した上でシステムに反映させる。理由が曖昧、あるいは「昔からそうだから」という回答であれば、それは見直しの余地があるサインだと捉え、今の事業規模に合わせて後継者の判断で整理してよい。承継ガイドラインでも、経営権の承継とあわせて知的資産の承継が重要だとされており、決裁ルールの背景を確認する作業自体が、この知的資産の承継の一部になる。
Q4. 判子をやめると、内部統制やコンプライアンス上の問題は生じませんか。
正しく設計すれば、むしろ内部統制は強化される。紙の判子は「誰が承認したか」の記録が紙一枚にしか残らず、後から検索・検証することが難しい。電子化されたワークフローシステムでは、申請から承認までの経緯がすべてデータとして残り、いつ・誰が・どの基準で承認したかを後から追跡できる。税務調査や監査への対応という観点でも、電子的な記録の方が説明力は高い。ただし、承認権限の設定を誤ると誰でも承認できる状態になってしまうため、権限設定は慎重に行う必要がある。
