「あの人がいなくなったら、うちの見積もりの根拠は誰も説明できなくなる」——先代の右腕だったベテラン社員の顔を思い浮かべながら、そんな不安を抱えている二代目・三代目経営者は少なくありません。先代がなぜその取引先には特別な条件を出していたのか、なぜこの工程だけは必ず自分の目で確認していたのか。マニュアルには書かれていない判断基準は、人の頭の中にしか存在しないまま、日々の業務を支え続けています。

結論から言うと、これらの「暗黙知」は、丸ごと言語化してマニュアル化しようとすると挫折しやすい一方で、生成AIを聞き手・整理役として使うことで、以前より現実的なコストで形式知に変換できるようになってきました。2026年9月時点の情報として、要点を先にまとめます。

  • 暗黙知の形式知化は中小企業の技能継承で最も遅れている取り組みであり、経済産業省・厚生労働省・文部科学省が公表した「2026年版ものづくり白書」でも、高年齢の従業員に再雇用・勤務延長で頼る対応(54.8%)が「技能の見える化」(31.2%)を大きく上回っている実態が示されている
  • 生成AIは、ベテラン社員へのインタビュー音声を文字起こしし、判断基準や例外処理のパターンを構造化して抽出する「聞き役」として使える
  • ただし本人が話した内容をそのままテキスト化するだけでは実務で使えるマニュアルにならず、「質問の設計」と「後工程での検証」が成否を分ける
  • 機密情報や取引先名を含む音声データの扱いには、既存の社内AI利用ルールを適用する必要がある

ただし、この取り組みには1つ見落とされがちな注意点があります。それは「本人に自覚がない判断基準ほど、AIに聞かれても言葉にできない」という壁で、後半で聞き出し方の工夫として詳しく説明します。まずは、なぜ暗黙知の言語化がここまで後回しにされてきたのかを整理しましょう。

「技能の見える化」はなぜ後回しにされてきたのか?

多くの中小企業が、暗黙知の言語化より先に「辞めないでもらう」ことを選んできたからです。

先ほど紹介した2026年版ものづくり白書は、経済産業省・厚生労働省・文部科学省の3省が「ものづくり基盤技術振興基本法」に基づき毎年国会に提出している法定白書です。その第2部で示された技能継承の取り組み状況(JILPT「ものづくり産業における人材確保・定着と技能継承に関する調査」2026年5月、規模計n=4,262の複数回答)によると、技能継承のために取り組んでいることの1位は「再雇用や勤務延長などにより高年齢の従業員に継続して勤務してもらう」で54.8%。2位の「継承すべき技能の見える化(テキスト化・マニュアル化・デジタル化)を図る」は31.2%にとどまり、両者には20ポイント以上の差があります。

この結果が意味するのは単純です。多くの経営者は「その人がいなくなったら困る」ことを認識しつつも、「その人の知識を取り出して残す」よりも「その人に居続けてもらう」ほうを、まだ現実的な対策として選んでいるということです。理由は想像に難くありません。ベテラン社員本人にヒアリングを依頼し、担当者がテープ起こしをして、読みやすい形にまとめ直す、という従来の技能継承作業は、時間と専門知識の両方を要する重労働だったからです。

御社の場合はどうでしょうか。もし「あの人に長くいてもらうしかない」という状態が唯一の対策になっているなら、それは決して他人事ではなく、多くの中小企業が同じ壁にぶつかっている、ということでもあります。

技能継承の取り組み状況を示す棒グラフ。再雇用・勤務延長54.8%が最多で、技能の見える化31.2%が2位という差を表す。

生成AIは、暗黙知の言語化のどこを変えるのか?

「聞き取り→文字起こし→整理」という一連の重労働を、AIが下ごしらえまで担えるようになった、という変化です。

以前は、ベテラン社員に話を聞く担当者(多くの場合は後継社長自身か、若手のホープ)が録音した音声を、まず自分でテープ起こしし、その後に読みやすい文章へ整理し直す必要がありました。1時間のインタビューを文字にするだけで数時間かかることも珍しくなく、この作業自体が「技能継承は分かっているが手が回らない」という状態を生んでいた側面があります。

Googleが2026年7月16日に発表した通り、リサーチ・ノートツール「NotebookLM」は「Gemini Notebook」に名称変更されました。名称変更にあわせて、Geminiアプリとの連携強化やセキュアなクラウド計算資源でのコード実行機能などが加わりましたが、音声ファイルをアップロードして文字起こしできる基本機能自体は従来と同様にスタンドアロンで提供されています。この手のツールに録音データを読み込ませれば、文字起こしから要約までを機械的にこなしてくれます。

ここで重要なのは、AIが代わりにやってくれるのは「聞いた内容を整理する」部分だということです。「何を聞くべきか」を設計するのは、依然として人間の役割です。漫然と「先代のやり方を教えてください」と聞いても、ベテラン社員本人が「当たり前すぎて言語化していない」判断基準は出てきません。次の章で、聞き出し方の具体的な工夫を見ていきます。

暗黙知はなぜ言葉にならないのか? 聞き出し方の工夫

本人にとって「当たり前」になっている判断基準ほど、質問されても言葉が出てこないためです。だからこそ、抽象的な質問ではなく「具体的な場面」を思い出させる聞き方が有効です。

暗黙知が言語化されない最大の理由は、隠しているからではなく、本人がそれを「暗黙知」だと自覚していないからです。20年間同じ仕事をしてきたベテラン社員にとって、取引先ごとに納期の詰め方を変えることも、ある工程だけ必ず自分で確認することも、「そういうものだ」という感覚でしかなく、質問された瞬間に「特に理由はない、感覚です」と答えてしまいがちです。

この壁を越えるには、以下のような聞き方の工夫が有効だとされています。

  • 抽象的な質問を避ける: 「あなたのノウハウを教えてください」ではなく、「先月扱った案件の中で、一番判断に迷ったのはどれですか。その時どう考えましたか」のように、具体的な1件の記憶を掘り下げる
  • 「失敗しかけた場面」を尋ねる: うまくいった話より、危うく失敗しかけた・クレームになりかけた場面のほうが、無意識に働かせていた判断基準が言語化されやすい
  • 「もし新人が同じ状況になったら、何を確認させますか」と聞く: 自分の頭の中の基準ではなく、他人に説明する体で話してもらうと、暗黙の手順が言葉になりやすい
  • 一度の面談で終わらせない: 1回のインタビューで全てを引き出そうとせず、案件が発生するたびに短い振り返りを重ね、AIに蓄積させていく

聞き取った内容をAIに要約・構造化させたら、そこで終わりにしないことも重要です。要約された内容を本人に見せて、「この理解で合っていますか」と確認する工程を必ず挟んでください。AIによる要約には、微妙なニュアンスの取り違えや、文脈の欠落が起こり得ます。ここで検証を飛ばすと、間違った基準がそのままマニュアルとして独り歩きするリスクがあります。

御社に当てはめるなら、まずは「一番替えが利かない人」を1人思い浮かべ、その人の直近のヒヤリハット案件を1つ聞くところから始めるのが、取り組みやすい一歩になります。

業種によって「暗黙知」の中身は変わる

聞き出すべき暗黙知の性質は、業種によってかなり異なります。着手する前に、自社の業種ではどんな種類の判断基準が眠っているかを具体的にイメージしておくと、質問設計がぶれにくくなります。

  • 製造・加工業: 「この材料ロットだけは加工速度を落とす」「音や振動の変化で異常に気づく」といった、数値化しにくい感覚的な判断基準。ものづくり白書でも技能継承の中心的な課題として扱われている領域です
  • 卸売・商社: 「この取引先には少し早めに納期連絡を入れる」「値引き交渉で譲れる範囲と譲れない範囲の線引き」など、相手ごとの関係性に紐づく判断
  • 建設・工事業: 「この現場監督とはこう調整すると話が早い」「この工程は天候によって前倒しする」といった、現場ごとの経験則
  • 小売・サービス業: 「常連客の好みや過去のクレーム経緯」「繁忙期のシフトの組み方の勘所」など、個人の記憶に依存した顧客対応の基準

いずれのケースでも共通するのは、「なぜそうしているのか」を本人に聞いても、最初は「昔からそうだから」としか返ってこないという点です。前述した「具体的な1件を掘り下げる」質問の工夫は、どの業種でも同じように機能します。

AIで聞き出した暗黙知を、どう形にすればよいか?

「マニュアル」という完成形をいきなり目指さず、まずは検索できる状態にする、というのが現実的な着地点です。

暗黙知の言語化と聞くと、立派な業務マニュアルを完成させることを想像しがちですが、そこを最初のゴールに置くと挫折しやすくなります。むしろ現実的なのは、以下のような段階を踏むことです。

  1. 録音・文字起こし: インタビューをAIツールで文字起こしする(発言そのままのテキスト)
  2. 要約・構造化: 「判断基準」「例外処理のパターン」「よくある落とし穴」といった観点でAIに整理させる
  3. 本人による検証: 整理された内容を本人に見せて、事実誤認や表現のズレを修正してもらう
  4. 検索可能な状態で保存: 完成した文書を、後から検索・参照できる形で社内に保存する

この4段階目で活きてくるのが、RAG(検索拡張生成)という仕組みです。蓄積した文書をRAG(検索拡張生成)の形で生成AIに読み込ませておけば、「〇〇社向けの見積もりで、先代が特別に気をつけていたことは?」といった質問に、蓄積した文書の該当箇所を根拠にAIが答えられるようになります。RAG(検索拡張生成)自体の仕組みについては、社内データを使えるAI(RAG)とは?先代の代からの資料を活かす選択肢で詳しく解説していますので、あわせてご覧ください。この記事と役割を分けると、今回のテーマは「話を聞き出して言語化する入口の工程」、RAGの記事は「言語化した後にどう検索可能にするか」という後工程にあたります。

なお、まだ生成AIの利用自体が社内で手探りという段階であれば、先代の時代にはなかった生成AI、承継社長のための最初の一歩から読むと、今回の取り組みがどこに位置づけられるか掴みやすくなります。

使うツールはNotebookLM(Gemini Notebook)でなければいけないか

ここまでGemini Notebookを例に説明してきましたが、暗黙知の聞き取りに使えるツールはこれに限りません。ChatGPTやClaudeのような対話型の生成AIでも、音声を文字起こしした後のテキストを渡せば、同様に要約・構造化ができます。選び方の考え方は次の通りです。

  • 既に契約している生成AIサービスがあれば、まずはそれで試す: 新しいツールを増やすこと自体が管理の手間を増やすため、既存契約の範囲内でできることを優先する
  • 長時間の音声を扱う機会が多いなら、資料の読み込みに特化したツールが向く: Gemini Notebookのように「複数の資料をまとめて読み込ませ、そこから横断的に質問できる」設計のツールは、インタビューを何本も蓄積していく用途と相性がよい
  • 文字起こしの精度は日本語の方言・専門用語でばらつくことがある: 業界特有の専門用語や機械名が多い場合、文字起こし結果に誤変換が残ることを前提に、必ず人の目で確認する工程を組み込む

どのツールを選んでも、前述の「質問設計」と「本人による検証」という2つの人間の役割は変わらない、という点を軸に選定すれば大きく外れることはありません。

比較: 従来の技能継承と、AIを介した暗黙知の言語化はどう違うか?

AIは聞き取り・整理の労力を下げますが、「聞く相手」「検証する人」が必要な点は変わりません。

観点従来の技能継承(OJT・マニュアル化)AIを介した暗黙知の言語化
主な担い手後継者・若手社員が同行して見て覚える、または担当者が手作業でマニュアル化ベテラン社員へのインタビュー音声をAIが文字起こし・要約
所要時間の目安マニュアル1本の作成に数週間〜数ヶ月かかることが多い(社内の担当者の作業実績に基づく目安。業種・分量により幅がある)文字起こし・要約自体は数分〜数十分。ただし検証・確認の工程は従来同様に人手が必要
引き出せる範囲担当者がその場で気づいた点に限られやすいインタビューの質問設計次第で、無意識の判断基準まで踏み込める可能性がある
リスク属人化したまま。作った本人がいなくなると更新が止まるAIの要約の誤りをそのまま採用してしまうリスク。本人検証が必須
機密情報の扱い紙・社内共有フォルダで完結しやすい音声データ・テキストデータの外部送信・学習利用の設定確認が必要

表からも分かる通り、AIは「作業量」を減らす道具であって、「聞く相手を選ぶ判断」や「出てきた内容が正しいかを検証する目」までは代替してくれません。ここを人間の役割として残すという前提を外さないことが、失敗しない運用の分かれ目です。

機密情報を含む音声データ、どう扱えばよいか?

取引先名や金額といった機密情報が含まれる前提で、既存の社内AIルールをそのまま適用する必要があります。

ベテラン社員へのインタビューには、具体的な取引先名、価格交渉の経緯、時には人事に関わる話まで含まれることが珍しくありません。これらを無料版の生成AIサービスにそのままアップロードしてしまうと、入力内容が学習データとして扱われる設定になっている場合、意図せず外部に情報が渡るリスクがあります。

対策の考え方は、既に生成AIの入力ルールを整備している会社であれば、それを暗黙知の聞き取りにもそのまま適用するだけで済みます。まだ整備していない場合は、最低限、以下を確認してください。

  • 利用するAIサービスが学習オプトアウト(入力データを学習に使わない設定)に対応しているか
  • 法人向けプラン・API経由での利用など、学習利用がそもそも既定でオフになる契約形態を選んでいるか
  • 録音データ・文字起こしデータの保存場所が、社内の他の機密情報と同じレベルのアクセス制御下にあるか

このあたりのルール作りをまだ済ませていない場合は、先代から継いだ会社でAIに機密情報を入れさせない社内ルールの作り方で入力ルールの作り方を、生成AI利用ガイドラインの作り方、古参社員にも分かる言葉でで社内ルール全体の整え方を解説していますので、暗黙知の聞き取りに着手する前に一度目を通しておくと安心です。

誰から聞き取るべきか。優先順位の付け方

「代わりがいない人」を「その人が抜けたときの損失が大きい順」に並べ、上位から着手するのが現実的です。

全社員分のマニュアルを一斉に作ろうとすると、必ず途中で息切れします。限られた時間と労力を、最も効果が出る相手から使うために、次のような優先順位の付け方が実務的です。

  • 代替可能性の低さ: 同じ仕事ができる人が社内に他にいない人を優先する
  • 年齢・引退までの残り時間: 定年や引退が近い人ほど、時間的な猶予が少ない
  • その業務が止まったときの影響範囲: 特定の大口取引先を1人で担当している、特定の工程を1人しか扱えない、といったケースは優先度が高い
  • 本人の協力姿勢: 話すことに前向きな人から始めるほうが、質の高い聞き取りができる。消極的な人を無理に最初にする必要はない

この優先順位を決める前段として、そもそも「誰が」「どの業務を」属人的に担っているかの棚卸しができていない会社も多いはずです。もし社内のどこにどんな属人化が潜んでいるかを整理できていなければ、属人化した先代システムを防ぐ、承継後の管理台帳の作り方で紹介している管理台帳の考え方が、聞き取り対象の洗い出しにもそのまま応用できます。

実際の進め方: 最初の1ヶ月のスケジュール例

優先順位が決まったら、次のような進め方が現実的です。あくまで目安であり、業務量や繁忙期によって調整が必要です。

  1. 1週目: 対象者を1〜2名に絞り、本人に「会社の記録のために話を聞かせてほしい」と趣旨を説明する。あわせて録音・AIツールの利用について本人の了承を得る
  2. 2週目: 最初のインタビューを実施(30分〜1時間程度)。「先月扱った案件で一番判断に迷ったもの」など、具体的な1件を掘り下げる質問から始める
  3. 3週目: AIで文字起こし・要約した内容を本人に見せて検証してもらい、表現のズレを修正する。この時点でできた資料を、社内の該当部署に共有し「使ってみてどうか」のフィードバックをもらう
  4. 4週目: 2件目のインタビューを実施し、同じサイクルを繰り返す。並行して、次に聞き取る対象者の優先順位を見直す

最初の1ヶ月は「仕組みを作る」ことより「1人分やり切って感触をつかむ」ことを優先すると、その後の継続がしやすくなります。

費用感はどのくらいか?

追加のツール導入なしで、既存の生成AI契約の範囲内で始められるケースがほとんどです。

暗黙知の言語化そのものに、専用の高額なツールは必須ではありません。多くの会社では、既に契約している生成AIの法人プラン(月額数千円程度から、利用人数やプランによって数万円程度まで幅がある)の範囲内で、録音・文字起こし・要約の機能を使えます。追加でかかるコストの目安は次の通りです。

  • 録音機材: 会議室に据え置きのICレコーダーやスマートフォンの録音機能で十分なケースが多く、追加投資はほぼ不要
  • AIツールの利用料: 既存契約のプランに文字起こし・要約機能が含まれていれば追加費用は発生しない。含まれていない場合、法人向けプランへのアップグレードが必要になることがある
  • 人件費: 最も大きなコストはここで、インタビュー・検証にあたる担当者の稼働時間そのものが実質的なコストになる

外部のコンサルタントに技能継承プロジェクトとして丸ごと委託する場合は、案件規模に応じて数十万円〜百万円単位の費用がかかることもありますが、まずは社内の担当者と生成AIの組み合わせで小さく始め、効果を見てから外部の力を借りるかを判断する、という順番でも遅くはありません。

よくある失敗パターンと避け方

「聞いて終わり」で検証を飛ばすことと、最初から完璧なマニュアルを目指すことの2つが典型的な失敗です。

暗黙知の言語化に取り組んで途中で止まってしまう会社には、共通するパターンがあります。

  • AIの要約を無検証で採用してしまう: 忙しさのあまり、本人への確認を省略して社内資料化してしまい、後になって「そんなことは言っていない」というズレが発覚するケース
  • 最初から全業務を対象にしようとする: 対象を絞らずに「うちの技能継承」として大きく始めてしまい、途中で息切れして止まる
  • 1回のインタビューで終わらせる: 暗黙知は案件ごとに少しずつ形が変わるため、一度聞いただけで完成版にはならない。継続的に積み上げる前提を持たないと、数ヶ月後には内容が古びる
  • 聞き手が先代・後継社長本人だけに偏る: 経営者自身が全て聞き取ろうとすると、通常業務との両立で継続できなくなりやすい。若手社員を聞き手として育てる視点も必要

これらの失敗の多くは、「最初から大きく完璧にやろうとする」ことが原因です。まずは1人、1つのヒヤリハット案件から、小さく始めてみることをおすすめします。今日、社内で一番替えの利かない人を1人思い浮かべ、その人が最近「ヒヤリ」とした案件を1つ、来週の空いた30分で聞いてみる。それくらいの規模から始めれば、続けやすいはずです。

承継後ならではの難しさ。先代の右腕への配慮

「話を聞かせてほしい」という依頼そのものが、古参社員には「引退勧告」や「監視」のように受け取られるリスクがある、という点に注意が必要です。

承継直後の会社でこの取り組みを始める際、一般的な技能継承と違う難しさがあります。それは、聞き取りの対象者の多くが「先代の右腕」であり、後継社長との関係がまだ十分に築かれていない場合があることです。先代の下で長年働いてきた社員からすれば、若い後継社長から急に「あなたのノウハウを記録させてほしい」と言われると、「自分の存在価値を奪われるのではないか」「早期引退を促されているのではないか」という警戒心が先に立つことがあります。

この懸念を和らげるために、次のような伝え方の工夫が有効です。

  • 「代わりを作るため」ではなく「会社を守るため」という位置づけを明確にする: 「あなたがいなくなったら困るからこそ、今のうちに知恵を借りたい」という趣旨を、依頼の最初に丁寧に伝える
  • 本人にも記録から利益があることを示す: 記録が整うことで、休暇が取りやすくなる、後輩への説明の手間が減るといった、本人にとってのメリットを具体的に添える
  • 先代を通じて依頼する: まだ関係構築の途上であれば、先代から一言添えてもらうことで受け入れられやすくなるケースがある
  • 一方的な指示ではなく相談として持ちかける: 「協力してくれませんか」という相談の形をとり、命令口調にしない

技能継承の仕組みは、正しく運用すれば古参社員自身の負担軽減にもつながるものです。「聞かれる側」の心理的なハードルを軽くする配慮が、結果として言語化の質そのものを高めます。

なお、この配慮が特に重要になるのは、先代からの引き継ぎがまだ十分に済んでいない会社です。古参社員との関係づくりや社内の合意形成そのものに課題を感じている場合は、暗黙知の聞き取りに着手する前に、まず社内の巻き込み方そのものを見直しておくと、聞き取りの受け入れられ方も変わってきます。刷新の説明会をどう準備し進めるかは古参社員を説得する、システム刷新の説明会の準備と進め方で扱っていますので、暗黙知の聞き取りという小さな依頼にも応用できる考え方として参考にしてください。

暗黙知の言語化は、一度仕組みが回り始めると、聞き取り→整理→検証のサイクルそのものが会社の資産になっていきます。ただし、どこまで自社で整理し、どこから専門家や開発会社の力を借りるべきかは、会社の規模や状況によって変わります。仕組み化の設計から相談したい場合は、承継後のIT刷新を専門にサポートする立場として、要件の整理からご相談いただくことも可能です。

まとめ: 暗黙知の言語化で持ち帰れること

ここまで読んで、次の3点を判断できる状態になっているはずです。

  • 「技能の見える化」が中小企業全体で後回しにされている実態(31.2%)と、その背景にある「辞めないでもらう」という従来対応の限界
  • 生成AIが担えるのは聞き取り・整理の労力削減であり、「何を聞くか」「正しいか検証する」のは引き続き人間の役割であること
  • 自社で最も替えの利かない人から、小さなヒヤリハット案件1つを聞くところから始める、という着手の仕方

先代が20年かけて積み上げてきた判断基準は、放っておけば人と一緒に消えていきますが、正しい聞き方さえ設計できれば、思っているより早く言葉にできます。まずは今日、社内で「この人が抜けたら困る」と真っ先に思い浮かぶ1人の顔を思い浮かべるところから始めてみてください。

よくある質問

Q. 暗黙知の言語化に、専用のAIツールを新しく契約する必要がありますか?

多くの場合、必要ありません。既に契約している生成AIサービスの法人向けプランに、音声の文字起こしや要約の機能が含まれていることが多く、まずはその範囲で試すことができます。専用ツールの検討は、社内で運用が軌道に乗り、対象人数や案件数が増えてから判断しても遅くありません。

Q. ベテラン社員が非協力的で、インタビューに応じてくれない場合はどうすればよいですか?

無理に本人から聞き出そうとせず、まずは「なぜ記録が必要か」を、辞めさせるためではなく会社を守るための取り組みだと丁寧に説明することが前提になります。それでも協力が得られない場合は、その人の仕事を間近で見ている同僚や部下から、周辺情報を聞き取るところから始める方法もあります。

Q. AIに聞き取った内容を要約させる際、情報漏えいが心配です。何を確認すればよいですか?

利用するAIサービスが学習オプトアウトに対応しているか、法人向けプランやAPI経由の利用で学習利用が既定でオフになっているかを確認してください。詳しい確認手順は関連記事の入力ルールの解説をご参照ください。

Q. 暗黙知を言語化した後、その内容を古参社員以外の若手にどう浸透させればよいですか?

作成した資料を保存するだけでなく、日常業務の中で「困ったらまずこの資料を検索する」という行動が定着するまでの声かけが必要です。RAGのような検索の仕組みを整えておくと、若手が自分から資料を探しに行くハードルが下がります。

Q. 1人あたりの聞き取りは何回くらい必要ですか?

決まった回数はありませんが、1回で完成させようとしないことが重要です。案件が発生するたびに短い振り返りを重ね、数ヶ月かけて内容を積み増していくイメージを持つと、無理なく継続できます。